昭和四十八年四月十五日 御理解
信心乃心得
一、子を産むは我力で産むとは思うな。皆大祖神の恵む処ぞ」
一事が万事にここのところの道理を分からせて頂いたら信心を頂いて居ることがこんなにも有難いものかと分かると思うのです。
私は今日、御神前で「春風亭柳風」と云うことを頂いた。これは何か噺家か何かにあるんじゃないでしょうか。こんな名前が、・・ だから私は、その春風柳風と云う、あれは春風駝蕩と云った様な言葉がありますねえ、いつも春風のようなおおらかな気持ちでおれれると云う意味なんでしょう。春の海原の様なとも申します。
私はそういう心の状態が、それはその人その人の性格も有りましょうけれども、信心に依ってここのところが体得できる、分からせて頂けると云うことが、信心の極めるところはそこだと思うのです。
云うならいつも安心のおかげを頂いておる、いつも平和な心を頂いておる。どんな事があっても、いわゆる和賀心の和とは、不壊のもの、どんな場合であってもその心が崩れないと云うのが和賀心の和だと言われております。
自分の気分のよか時だけは、春風駝蕩でしょうけれども、何か自分の都合の悪かったり困った難儀な問題が起こって來ると、もう気持ちが崩れると云うのであっては、いわゆるその春風駝蕩とか、いわゆる春風亭柳風と云うことじゃないと思うのです。
私は今日春風亭柳風と云うことを頂きましたが、段々私の気持ちの上にまあこういうおかげを頂いておると云うことだと思いました。 皆さん、信心させて頂いておかげを頂くと云うことはそういう事なんです。それを病気が治りますように、災難がよけられますように、どうぞ試験が通りますようにと、これはもうほんの枝葉です、信心の・・・。
私の心の中に、いわゆる和賀心が頂かせて頂けると云う稽古なんです。しかもそれは、いつでもどんな場合であっても、そういう心の状態になれれる道が有るんだと云うのです。だからそういう心におかげがある。
真に有難いと云う心と云うのは、私は何時でもそういう春風駝蕩と云うか、平和な心を持たせて頂けておる、そういう有難い心におかげは、いわゆる限りなく恵まれるんだと、神の恵む処どと。
例えば今日はこれはお産、妊娠とか出産と云うことについての、これは御理解ですけれども、同じ事なんです。
「子を産むは我力で産むとは思うな。皆大祖神の恵む処ぞ」
例えば、そんなら大小便に例えてもいいです。行きたくないのにいくらきばったっちゃいかんでしょうが。催して來る、いわゆる催してくる、そこに例えば便所に参りますと、もうそれこそ気持ちのよい様におかげを頂くでしょう。
成程それは一つの体に故障があります。秘けつをするとか、例えば小便が出らんとかと云ったような病気も有ります。それはただし病気です。普通はそうでしょう。いかに大便に行きたくないのにきばったっちゃ駄目です。子供を産むでも同じ事です。催しがあってそこには自分で力むのじゃない、力まされるのです。自分できばるとじゃない、きばらさせられるのです。
神様のおかげを頂かなければ出来ることではない。神様のおかげを頂かなければ立ち行かんと云うこの思いが、出来るという事なんです。それを分かると云うことが信心なんです。
私はね、今日は本当にこの子を産むは我力で産むとは思うな、皆大祖神の恵む処だと仰るこの道理がね、全ての点に合点がいき、分からせて頂いて、体得出来ると云うことが信心だと思います。
まあ、そこでですね、やはりそのきばらせて貰うところの修行と云うかねえ、まあ春風駝蕩と云う言葉の反対に、霧の朝炎天烈日の何とかと云った様な言葉が有りますねえ。
夏の日の烈しい暑さの日の時やら、又は冬の朝の霜の朝の様に烈しい心の状態、そういうところも通り抜かせて頂いて、その暑い時には暑さも感じん程しの修行、寒い朝に寒さも感じん程しの修行を身につけて、その後に春風駝蕩でなからなければならないと思うのです。
だからこれは、もう性格的なものじゃないと云うことが分かります。性格的にのんびりした人もあれば、イライラ、ケソケソしとるのもありますけれども、そういう事じゃない。
どんなにイライラ、モヤモヤする人であっても、どんなにのん気な人であっても、信心に依っておかげを頂いたその先に生まれて來る春風駝蕩、いわゆる和の心でなからなければいけない。
その為には、どんな夏の暑さもです、暑さを感じん程しのそんなら修行も又必要だと云うこと。
もう家の中におって、暑い暑いと云うておる人が有るかと思うと、それこそ、夏の暑い瓦の上で瓦をふせたりしておる左官さんなんかの姿を見るとね、もうそれこそ暑いと云う様なもんじゃない程しの焼けるような瓦の上で仕事をしてるんですからねえ。
そんなら冬でも、寒い寒いと云う時、そんなら一生懸命働いておる人は、それこそシャツ一枚で汗がぶるぶる出るといったようなおかげも頂かれるのです。
人生の暑さでも、人生の寒さでも信心に依ってお互いが本気で修行させて頂く時です、暑さも寒さも感じん程しのおかげ、その先に私は春風柳風と云ったようなおかげが頂かれると思うのです。過程なんです。そこんところを本当に自分のものにする。そこんところを本当に自分が分からせて頂くと云うことなんです。
本当にこういう素晴らしい道が有るんだ。本当に信心させて頂くと云うことは、親のある子と無い子程の違いとこう言われるが、本当こういうおかげの道が有るんだと、いくら言うても思うてもです、これをみんなが本気で分かろうと云う気にならにゃ分からんのです。
私の話を聞いて下さっとっても、只おかげ頂きたいばっかりの一念で参って来よっても、私の言うお話が身につかんです。
確かに金光様の御信心はおかげの頂けれる道ですけれども、そのおかげの本当におかげと云うのは、いわゆる私がいつでも自分の心の中に和の心が持てれる、それこそ春の風のように、どの様な問題があっても柳に風で受け流せれるような、春風柳風のおかげを頂くと云うことが信心だと云う事。
人が泣きの涙と云う時に、有難涙がこぼれる程しの道が有るのです。
昨日私は本を読ませて頂きよりましたら、親鸞上人様の事が出ていました。親鸞上人様が三十五歳の時に越後の国に流罪になられます。そこの庵で永年修行なさる訳ですが、そこに今も残っておる小さい石塚があって、その石塚にこういう詩が刻んであるそうです。「この里に親の死にたる子はなきか、みのりの声を聞く人もななし」と云う詠です。
親鸞上人様が、例えばそういう流罪のうき目を見られる程しの難儀な中にあっても、仏の云うならば道、みのりというのはね、御教えと云う意味なんです。いわゆる仏法僧と云う御理解をこの頃頂きましたが、あの法の事なんです。
法を分からせて頂いておれば、仏様を拝むことを分からせて頂いておれば、こういう難儀な中にあっても、こういう喜びの生活が出来るのにです、この里には親の死したる子はなきかと、
親を亡くした事の、例えばそうい悲しい思いをする人はないもんだろうか。有るならばこういう素晴らしい御教えに依って助かる道があるのに、その御教えを聞きに來る人もないと云うて、悲しく思ったという詠が石塚になって残っておると云うのでございます。
キリスト様は「我笛吹けど人踊らず」と嘆いておられます。伝道して回られるけれども、なかなか自分の話をよう聞いて呉れない。いや、只御利益的な事はみんなが耳を傾けて聞くけれども、奇跡を起こさせて貰う、その奇跡のところだけはみんなが見たり聞いたりするのだけれどもです、本当の教えを聞こうとしない。「笛吹けど人踊らず」と、キリストは嘆いておる。
私はそれをそう思うて教祖の神様はそこんところをどういう風に頂いておられるだろうか。
教祖の神様の場合はね、「親の心を子知らず、神の思いを人知らず」と、やっぱり金光大神のこれはお嘆きの言葉だと思います。
「親の心子知らず、神の思いを人知らず」と、親の心が分かれば親不孝は出来ん。神様の思いが分かりゃ、神様のお心に添い奉る生き方にならなければおられない。そういう生き方の中にこの様に安心のおかげが頂けれる、喜びのおかげが頂けれるのにと云うのです。 そこで次に私は、そこのところをどういう風に頂いておるだろうかと私は本当にそれを思うです。そんなら私が春風柳風のおかげを頂いて、どの様な場合であってもこの程度の事のおかげを頂いておると云うことです。こういう有難い道をです、みんながもし私が頭を下げて回るならば、信心したっちゃよかと云うなら本当に誰の前にでも土下座して頼みたい気がする。
それを私はそれこそ、三味線太鼓で囃して回って宣伝して回って、人がそれについて來るならそげんしてもよいとすら思う位です。私が頂いておるこの程度の信心であっても。
ですから、皆さん本当に私が皆さんに分かって欲しい、頂いて欲しい。それは親先生は特別、親鸞様は別だ、それはキリスト様はと言わずにね、そういう道を体得させて頂くと云うことなんです。信心とは・・・・
本当に親の思いが分かり、親の心が分かり、神の思いが分かる。分からせて貰うと云うこと。分かるから神のお心に添い奉る生き方と云うか、いわゆる法にのりとったところの生き方が出来るんだと云うのです。
そういう道が有るんだ。どの様な場合であっても、春風柳風のおかげの頂けれる道が有るのだ。それをかすかながらも私が頂いておるから、この信心をみんなにも頂いて貰うたらどんなにか有難いことになるだろうか、どんなにか世の中が平和なことになるであろうか。世界中の人間氏子がここのところを気付かせて貰い分からせて頂くことになったら世界真の平和が頂けるだろうと思わせて貰う。 その為ならばです、もうどんな例えば、私が頭を下げて回れば話を聞いてくれると云うなら、三味線太鼓で囃して回ってです、云うならば私が宣伝して回ってみんながそれをそんならいっちょと云うて、私の言うことを聞いてくれるなら、そうしても厭わないとさえ思う位です。
ですから、皆さんがです、その気にならなければいけない。その気にならなければ信心は頂けない。成程付け焼き刃の信心ではいかん。人から誘われての仕様事なしの信心じゃ詰まらん。もうその身から打ち込んだ信心でなからなければいけないと言われるのもそこにそういう意味が有る訳なんです。
子を産むは我力で産むとは思うな、皆大祖神の恵む処であると言う、例えばそういう事が本当に分かる。これはもう一事が万事に子を産むだけではない、子が授かる事だけではない。一事が万事に神様のおかげを頂かなければ、立ち行かんのだと云う、しかもそこにはです、自然の力みというそれは自が力むのじゃない、力まされて力むおかげの頂けれる道が有るんだと。 それを待たずして、出もせんのにきばっておる様な無駄な力がそこに、いわゆる我情我欲で難儀を難儀として受け、悩みを悩みとして悩んでおると云う人達が沢山有る中にです、こういうおかげの頂けれる道があると云うこと。
私が分からせて貰い、みなさんが分からせて貰うてです、それを本当にみんなに分かって頂く。いわゆるおかげを受けた人の、云うならば悲しみとでも申しましょうか、本当に助かっておる人の悩みとでも申しましょうか。
私が本当に助かっておる。この助かりと同じ様な助かりを皆さんにも分け与えたい。そんなら自分が本当にそういう信心を頂きたいという姿勢を作らなければ頂けることではないと云うことですよね。 どうぞ。